京都の路地で墨色の空を見上げる。
曇天の京都の古い町並みは、モノクロームの淡いコントラストが美しい。
京都といえば四季折々の風景が話題にされがちなのですが、水墨画や石庭などに代表される余白の美学のような墨色の風景もまたよいものです。
曇りの日は晴れでもない、雨でもない、どっちつかずの曖昧な雰囲気が、むしろ心地よく感じて落ち着きます。
どっちつかずで白黒ハッキリしない曖昧さ。この曖昧さを楽しむためには外出などせずに窓辺で読書するに限ります。
雨が降るかもと思いながら出かけようとすると、ポツリポツリととめどなく選択肢が降ってきます。まず雨が降っても大丈夫なルートはどれか?車?電車?バス?傘は持っていくのか?折りたたみ傘にするのか?靴は?革靴?スニーカー?レインシューズ?
対して窓辺での読書は、曇天なので窓辺付近ではどこも同じ明るさで、柔らかい光が目に優しいです。唯一の選択肢は何の本を読んで、何を飲むのか?食べるのか?
あとはいちにちの余白をゆっくりと味わいながらリラックスして暗くなるまで本を読めばいいのです。
窓辺にずっといるのでその日の天気が何となくわかってきたつもりになって、「読書もひと段落したし外に出てちょっとリフレッシュするか」という気分になってやっぱり外出したくなることも結構な頻度であります。
もうこの時私はいちにちの余白の住人なので、何をしてもいいのです。「今日はもう外出せずに読書をするとさっき決めたばかりじゃないか」と頑なになって苦痛を感じながら読書を続けなくてもいいのです。
こう思いついたときには「この後急に雨降りになってもまあいいか、傘は置いてちょっとそこまで歩いてみよう」と突然の雨に対して無防備な姿で京都の町に飛び出します。
そうすると歩き始めてものの5分で突然雨に降られてびしょ濡れになることも少なくありません。
どんよりした曇りは降水確率30%くらいでもその空の様子では3回に1回は雨が降るだろうという意味なのですから。
しかし余白の住人は当然のことながら濡れたら困る重要な紙の書類や高価な電子機器など携帯しているはずがなく、ただただ「帰ったらシャワーすればいいか」と気楽に考えているのです。
余白の住人は何ひとつ入る隙間のない厳格な余白を嫌い、「何でも入ってきていいよ」という受容の余白を愛しているので、こうしていつどのタイミングで深呼吸してもいい日がたまにないと窒息してしまうのです。
だから墨色の空は個人比で普段よりも酸素をたくさん含んだ空なのです。
Presented by キョウトスイスイ
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