人は、何かに満足したいとき、「ホニャララさえあれば、それで、いい」という極論に、いとも簡単に身を預けてしまう。
私はこの極論を唱える人間があまり好きになれない。というかどうにもウサン臭いと思う。
休日の午後、京都市北区の賀茂川のベンチに腰かけて、川面というよりは、ジョギングしている外国人や爆走するロードバイクなど目の前をシュンシュン通り過ぎていく物を見るともなくぼんやり眺めていると、こんなふうに物事の本質についての思考も発露した瞬間つられて勝手に走り出して止まらなくなることがあったりする。
たとえば、「一杯のコーヒーと朝刊があれば、それで、いい」と、ひとり静かに陶酔している中年の男がいるとする。
特に京都の喫茶店にはこのテの男性が多いように思う。
右手には、縁ぎりぎりまで満たされたホットコーヒーのカップ。
左手には、片手で読めるように器用に折り曲げられた朝刊。
男はそれらをまるで祭事の神官のように恭しく扱っている。
その瞬間、まずテーブルと椅子が理由もなく消える。
次に、窓が消え、壁が消え、床が消える。
それでも男は新聞から目を離さない。
周辺世界の欠落など、昨日起きた出来事の見出しよりも重要ではないらしい。
「朝」という概念だけが「朝刊」の影響でしぶとく最後まで残っているので、空に強引に固定されてしまった象徴的な朝日が、やけに直接的に男性の網膜を焼く。
重力はもうすでに失われているのに、それに気がつかない男の真ん前で、自由になったホットコーヒーは球形になって宙に浮かびあがる。
黒々とした表面は万が一触れてしまうとヤケドしてしまいそうなほどまだ熱々の様子。
それでも彼は、「これさえあれば、それで、いい」という思想ケースの内側にぴたりと収まっている。
やがて皮膚が、ゆっくりと溶けはじめる。
境界を失った臓器が、互いに混ざり合い、透明なゼリー、そして幽霊のような希薄な質感に変異していく。
その過程に痛みはなく、ただ輪郭だけが静かに失われていく。
当然新聞社も、昨日の出来事もなくなっているので、新聞紙はバラバラにほどけ、デタラメな活字の羅列を貼り付けただけの無意味な再生紙が、黒い太陽のような球状コーヒーの周回軌道を静かに廻りはじめる。
そこにはもう、中年の男性も、喫茶店も、世界中のほとんどが存在しない。
あるのは、「一杯のコーヒー」と「朝刊」という観念だけ。
極論にたどり着いた人間は、その確からしい満足感と引き換えに、その他すべてを手放して、自分だけの小宇宙に閉じこもってしまう。
それでも彼はきっと「これさえあれば、それで、いい」と思っているはず。
これが、いわゆる「ホニャララさえあれば、それで、いい」と信じて疑わない人間に対して私が感じる近寄り難さの正体である。
Presented by キョウトスイスイ
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