門を眺める時、まずは正面から。
帰りは内から。
京都のありとあらゆる場所にある門。
日々、観光客や地元民は門を出たり入ったり、ただ門前を通り過ぎたりしています。
正面から眺める門の風景は、その内側に長い石段や寺社仏閣がチラリと見えてその一部分から壮大で歴史的な全体像を想起させます。
対して、内側から眺める門の風景は、門から門前の町の雑踏が垣間見えることで時空を超えて過去と現在の大きなギャップの存在を否応なしに感じさせられます。
門は絵画でいう額縁の役割を果たしているようで、その門の内側のイメージの印象に大きく影響を与えています。
門の「内側」と「門前」の時代や歴史の差があればあるほど、単なる「プライベート」と「パブリック」の境界線であるはずの門が「過去」と「現在」のように大袈裟な断絶になってきます。
同様に京都には町屋が集まる路地の入り口に住人の名前が記載された札がたくさん並んだ門が建てられていることがあります。
基本的にこのような場所は用なくみだりに立ち入ってはいけないのですが、私はたまたま仕事柄この門の内側に入ることがあるのでこの門前とのギャップをよく感じます。
個人的にはこの門前のギャップは自分の生きた時間を通過しているかどうかで感じ方が変わります。
つまり数百年前の門から見える現在の街並みは、自分の生活した時間を通過しているので時代の変化を一目で感じとれるのですが、数百年前の門から見える数百年前の寺社仏閣は個人の体験は存在しないのでもはやただの観光になってしまいます。
逆に新しいゲートから古い景色をのぞきこむとなると時代のギャップの感じ方がまるでハリボテを見ているような感覚になってしまいます。
ニュースなどでたまに見る「地域のシンボルとなるアーティスティックな新しいゲート(建築)から望む古い良き街並み!」も「パチ屋の自動ドアが開いた時に見える地元!」みたいに感じてしまうのです、私は。
しかしこれは否定的な意見ではありません。
例えば現代の高解像度のディスプレイで最新のSNSなどのプラットフォームというゲートを通してヴェイパーウェイブやレトロウェイブのような懐かしの低解像度のイメージを眺めると世代を問わずなぜかいいね!が集まりますし、私もこのレトロな表現は個人的に好みです。
さて、もう訳がわからないので一旦まとめると、
・京都にくる観光客は、数百年前の文化遺産をただ門の外からチョット眺めるだけの外側からの視点。
・京都に住む人は、いつも変わらずそこにある門から変わりゆく町をジット見つめる内側からの視点。
・レトロはハリボテのような過去に対して生じる感覚。
まとめると、京都限定ではありますが、コンペやフェアなどで新しいシンボルをどんどんつくるのではなく、そこに住む人が真面目に街を少しずつ更新していく方がなんかいい感じというそれだけの話。
そうすると観光も京都に住む人の営みも残り続けるし、日々をイメージに残せれば数十年後にはレトロとして付加価値もついてくるので大変お得です。
Presented by キョウトスイスイ
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